日本AALAのあゆみ(1956年~)

◆創立

1956年10月31日、東京で創立されました。
平和5原則(※)の立場にたって、アジア諸国民の連帯をはかることを決めたアジア諸国民会議(1955年4月インド・ニューデリー)の決議により、アジア各国にそれぞれの連帯委員会が創立されるなかで、で、日本にも『日本アジア連帯委員会』として創立されました。

※《平和5原則》
 (1) 主権および領土保全の相互尊重
 (2) 相互不可侵
 (3) 相互の内政不干渉
 (4) 平等互恵
 (5) 平和共存

《バンドン10原則》(「平和10原則」ともいう。)
 (1)基本的人権と国連憲章の尊重
 (2)国家主権、領土保全の尊重
 (3)人種、諸国家の平等
 (4)内政不干渉
 (5)国連憲章に従い諸国民が個別的、集団的に自国を防衛する権利の尊重
 (6)集団的防衛機構を大国の特定の利益に用いず、他国に圧力をかけない
 (7)領土保全、政治的独立への侵略、脅迫、力の行使をしない
 (8)国際紛争は国連憲章に従い、関係国が選択する平和的手段で解決
 (9)共通の利益と協力の増進
 (10)正義と国際的義務の尊重
 〇1955年4月、インドネシアのバンドンで開催されアジア・アフリカ首脳会議で採択された。

1. アジアでの連帯運動の始まり

東西冷戦期、世界の人々は核兵器大国による対決に懸念を強めていました。1954年にビキニ核実験にたいする大規模な議運動が起きたのをうけて、緊張緩和と核実験の停止をもとめる世界平和会議がストックホルムで開かれました。そこに集まったアジアからの参加者たちが相談して、アジア諸国による人民の代表会議を開くことを決めました。

2. アジア連帯員会の創立

そのアジア諸国民会議は1955年8月にニューデリーで開かれました。そして各国人民にヒロシマで開かれる第一回原水爆禁止世界大会への参加をよびかけるとともに、アジア諸国民の連帯を平和5原則にもとづいて促進するために、各国にアジア連帯委員会を設置することをきめました。その直後の6月に、初のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)」が開かれ、世界平和と協力の促進のためのバンドン10原則を採択しました。こうした動きに触発され、ニューデリー会議のよびかけにこたえるかたちで、1955年10月に日本アジア連帯委員会が設立されました。

3. アジアからアフリカに広がる

連帯の運動は、民族解放のたたかいが燃え広がっていたアフリカ大陸に広がりました。カイロで開かれた第一回のアジア・アフリカ諸国民会議(1958)には、アジア25カ国から306人、アフリカ19カ国から207人が参加し、帝国主義や植民地主義、核軍拡反対などの諸決議を採択しました。そして共通の大義にたってAA諸国人民の連帯を促進するためAAPSOを設立することを決めました。日本アジア連帯委員会は他の10カ国とともにその常設書記局のメンバーに任命されました。その後まもなく第1回の非同盟首脳会議がベオグラードで開かれてNAMがスタートしました。その会議でAAPSOは首脳会議のオバザーバー組織に任命されました。

4. 沖縄人民のたたかいと国際連帯

日本の南方の島の沖縄では、人々が日本復帰をもとめてたたかっていました。沖縄はサ条約によって日本から切り離され、米軍の統治下で苦しんでいたので、人々は独立を求めるアジア、アフリカ人民のたたかいにとてもはげまされました。そこで沖縄アジア連帯員会が創設されました。沖縄AAと日本AAは共同で1963年にタンザニアのモシで開かれた第三回AA人民会議に、沖縄の日本復帰をもとめる国際行動を提案し、全会一致の支持をえました。それにもとづいて沖縄人民に連帯するさまざまな活動が本土と沖縄の両方でおこなわれました。なかでも画期的だったのは、1963年4月28日におこなわれた海上大会で、本土と沖縄の両方から船に乗った人々が境界の会場で合体するというイベントでした。同じ日海外でも北京やハノイ、平壌で沖縄人民支援の国際連帯集会が開かれました。この国際連帯行動は1972年に沖縄の日本復帰が実現するまで、毎年続けられました。

5. AAの民族解放運動と連帯して

日本AA連帯委員会は、AAの民族解放運動と連帯してさまざまな支援活動をしてきました。60年代の初めに集中したのはアルジェリアの独立運動支援でした。解放組織の代表を招いて、東京に極東事務所を開設し、資金集めを支援しました。1960年代に激しくなったインドシナ戦争中に日本AAがもっとも力を注いだのは、米国の侵略とたたかうインドシナ3国の人民支援でした。在日米軍基地にたいする大規模な抗議集会がおこなわれ、日本領土がべトナム侵略の前進基地として使われることに抗議しました。救援物資をつんだ支援船を数次にわたってベトナムに送りました。1975年にベトナムの全土が解放されたことは、新の独立と平和を求める日本と世界の人々を励ました。日本AALAは民族解放運動をたたかって勝利した人民と交流を深めるため各地に訪問団を送りしました。

6. アフリカ支援とアパルトヘイト反対

1980年代に深刻な飢饉がアフリカを襲いました。日本AALAは大規模な募金活動を全国でおこない、数千万円を被害地域に届けました。当時、南アではアパルトヘイト反対闘争が激化していました。日本AAはアパルトヘイト廃止をもとめる国際運動に積極的に加わりました。南アと貿易をする日本政府と企業に取引をやめるよう要求しました。アフリカ民族会議(ANC)の代表を東京に招き、東京事務所の開設を支援しました。また民族歌舞団アマンドラの日本公演を主催し、大きな成功を収めました。こうした活動が評価されて、当時の秋庭稔男・日本AALA理事長にたいし南ア政府からオリバー・タンポ賞が贈られました(2012)。

7. 民族自決権の擁護をかかげて

AA人民が政治的な独立をかちとり、ほとんどの植民地が姿を消した後も、日本AALAはすべての国の主権と自決権を擁護する立場にたって、あらゆる形態の外国の干渉や侵略に反対してきました。イスラエルによる不法な軍事占領下でたたかうパレスチナ人民の支援を続けています。また西側の大国による干渉や侵略だけでなく、他の大国による干渉や大国主義、覇権主義に反対し、厳しく批判してきました。旧ソ連によるチェコスロバキア侵攻やアフガニスタン侵略、あるいは中国の毛沢東による革命の輸出にも反対してたたかいました。国際連帯組織としてそうした一貫した態度を貫いたことが、日本国内での国際連帯運動をすすめるうえで大きな力になりました。

8. 中南米の独立と主権を守るたたかいに連帯

1959年の革命以来、米国の乱暴な干渉をうけたキューバ人民の闘いに連帯し、その民族自決権を断固として擁護してたたかいました。ピノチェト独裁とたたかうチリ人民支援は1970年代の主要な活動となりました。1980年代には米国のレーガン政権による中米への干渉戦争が激しくなりました。日本AAはそれとたたかうニカラグア人民支援を世界の民族自決権擁護の最前線のたたかいと位置付けて活動しました。ニカラグアに医療器械や1000台の自転車を送る運動にとりくみました。そして組織の名称をラテンアメリカを含める日本AALAに変更しました。
米国の支配から自立し、新自由主義からの脱却をもとめるラテンアメリカ人民のたたかいは、1998年にベネズエラでチャベス政権の勝利を契機に、中南米中に広がりました。中南米カリブ海諸国連合(CELAC)が生まれ、核兵器の廃絶や平和地帯の宣言をしました。日本AALAは中南米のこうした動きに学ぼうと、数次にわたって訪問団を送り、また各国の与党や労働組合の幹部を招いて交流しました。2010年代にはいると米国からの巻き返しが強まり、成立していた左派・中道左派政権がソフトクーデターなどによって覆されました。日本AALAは、米国などからのこうした干渉に反対し、主権を守って戦う人民と連帯しています。

9. 非同盟運動との連携

バンドン精神を受け継いで、核兵器の廃絶や公正、民主の国際秩序をめざす非同盟運動は、非核・非同盟・中立の新しい日本をめざす日本AALAの目指す方向と一致します。そのため創立以来、NUMと連帯を重視し、第11回首脳会議以降、第17回(2016)まで毎回、首脳会議にオブザーバー参加をしてきました。そこで核兵器廃絶や在日米軍基地問題の解決への協力を訴えてきました。日本国民のなかに非同盟運動への理解を広めるために全国各地で学習会を開催、非同盟諸国の大使や学者を招いての交流会や「非同盟運動の発展を考える国際シンポジウム」を開きました(2001)。バンドン会議55周年にあたっても、大規模な講演会を開いて、一部の大国による支配にかわって主流となったAALA諸国と非同盟運動の役割、日本が将来この運動に参加する展望を確認しました。

10. 東アジアの平和共同体をめざす運動

アジアでは北朝鮮の核問題など北東アジアで緊張が続きましたが、東南アジアではインドシナ紛争時代の対立を乗り越えて各国が協力する東南アジア諸国連合(ASEAN)が発展しました。2000年代にはってからはASEAN主導で東アジア全体の包含する対話の枠組みが発展しました。日本AALAはこの流れを重視し、ASEAN本部や議長国へ訪問団を派遣したり、ASEAN各国の大使を招いて全国各地で学習会を開きました。2015年には東京で、創立60周年を記念して東アジアの平和共同体の展望を考える国際シンポジウムを開催しました。2016年からは東アジアの不戦体制の構築を訴える署名運動を開始しました。毎年ASEANの議長国を訪問し、東アジア首脳会に出席する首脳たちに署名を届ける運動をおこなっています。